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「戦後70年」ポリタスの特集記事/「対話の場づくり」の必要性

 
津田大介さんが編集長を務めるウェブメディア「ポリタス」が、特集「戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ」を展開しています。下の写真は、特集ページのスクリーンショット。

 
その特集のコンセプトは、「今年の8月15日に国民と世界に向けてスピーチをするとしたら、あなたはどんなスピーチをしますか?」というもの。「いまこの戦後70年という節目の夏に、多様な文化・歴史的素養を持つそれぞれの論者による未来志向のスピーチを集め、それを一覧して読者に提示したい」(抜粋:ポリタス特集「戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ」を開始します)という言葉のとおり、同じテーマに対して様々な視点で書かれた寄稿記事が淡々とアップされていて、どれも分量的にも読みやすく、いろんなことを考えさせられます。
 
その中から、いくつか印象に残った部分を(自分があとで読み返すためにも)抜粋してまとめてみます。
 

昨日まで私は日本国の首相でしたが、今日はもう首相ではありません。と言っても辞任したわけではなくて、暗殺されたんです。で、今日は首相ではなく死人として、もとい詩人として、じゃなかった私人として一言申し上げます。

▲元記事:死して首相は愚痴を残す(谷川俊太郎)
 
※ これは印象に残った箇所というか、書き出しの部分なのですが。詩人の谷川俊太郎さん、さらっとした文体だけど、想像力がかき立てられる(ツイッターでも、いろんな解釈が飛び交ってしました)さすがのスピーチです。
 

こうした世論の力を有効に使って核保有国を動かすための大切な柱は、「法の支配」「話し合いによる問題解決」、そして「科学の力」です。昨年から今年にかけて起きた世界の重要な動きはこの線に沿っています。(中略)残念ながら日本政府は、こうした世界の動きを感知できず、アメリカの顔色だけを窺っています。(中略)現在の日本の状況は、周回遅れという点では大日本帝国の二の舞としか思えません。

▲元記事:未来を先取りして今を変えよう――被爆70周年に考える(秋葉忠利)
 

君たちには、考える頭があります。その考えを伝える言葉があります。だから、いま目の前にあるぶつかり合いを、暴力ではなく、話し合いによって解決することができるのです。場合によっては、2人の思いが完全に満たされる解決策は見つからないかもしれません。きっと、そういう場面のほうが多いことでしょう。ならば、おたがいが少しずつ我慢したり、譲り合ったりするしかない。それぞれ、何を我慢できるのか、どこまで譲れるのか。それをとことん話し合ってほしいのです。

▲元記事:息子たちへ(乙武洋匡)
 

私は日本に生まれ、フランスの学校で育ち、アメリカの大学に学び、いままた日本で仕事をしながら生活しています。私は日本という国を愛していますが、それは国家を愛するということとは意味が違います。(中略)私にとって国とは、その場所に住んでいてその顔を思い浮かべることのできる個々の友人や家族に加え、そこに根付く文化の総体を意味しています。そして、文化とは互いに融け合うものです。

他者を否定して内に閉じこもるのではなく、逆に肯定して自らのうちにしなやかに取り込むこと。業と見なすか、したたかさと見るかはさておき、この他者との差異を尊重し、敬意と謙譲を必然的に育む文化的な技術において世界に類を見ない歴史を持つことこそが、日本という「国」の構造的な美しさであり、偉大さなのではないでしょうか。

▲元記事:豊かで複雑で美しい「生命」のような国へ(ドミニク・チェン)
 

わたしは、それぞれの幸福を見つける力、そのイメージを自分の言葉で語る力、自分とは違う幸福の形を認める力を次の世代にあげたいし、自ら行使します。自分と違う生き方をする人間に、心配の衣を着せた呪いをかけるようなことがありふれ過ぎています。人並みはずれた才能か情熱を持った人間しかその呪いを覆せない世界なんて、絶対に間違っています。

▲元記事:この国を、複雑な幸福を守れる国にしたい(メレ山メレ子)
 

私たちが考えることをやめて、全てを権力に任せてしまったときに、静かに戦争が始まります。立派な意見が言えなくて、自分に自信が持てないかもしれません。それでも、自分の中にある「違和感」を無視せずに「私はこれはおかしいと思う」「私はこんな社会はいやだ」と、小さくてもそうやって声を上げること。これはとても大切なことです。(中略)マイノリティが生きやすい社会は、マジョリティも生きやすい社会です。

▲元記事:声を上げ続ける――レズビアンである私の視点(東小雪)
 

「戦後70年」という言葉のなかには、唯一日本人こそが歴史の主人公であるという傲慢さが無意識的に隠されています。それは周辺地域の困難な歴史を見えなくさせ、その言説化への抑圧に加担してしまうのです。こうした一元的な時間認識を相対化し、さまざまな戦後を思考することから、日本人は新しく歴史を認識しなければなりません。ひょっとしたら「戦後」なるものが存在しているのは日本だけかもしれないのです。韓国でも、パレスチナでも、チベットでも、存在しているのはただ「戦争中」だけかもしれないのですから。

▲元記事:「戦後70年」というものはない(四方田犬彦)
 

(植民地支配や侵略など)その責任の多くは「国」、つまり政府と軍部にあります。けれども、多くの国民が、その誤った国策を支持したり、協力したことから目を背けるわけにはいきません。そのような国民意識を育んだのは、教育とジャーナリズムだったと思います。
当時とは異なり、今は国民が主権者です。政府に国策を誤らせない責務が、国民にあります。教育やジャーナリズムの責務は、かつてより増していると言えるでしょう。

▲元記事:過ちを繰り返さないための、わたしたちの責務(江川紹子)
 
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などなど。どの意見が正しい、間違っている、ということではなく、様々な立場の人の意見を寄稿記事という形で読めるので、「こういう考え方はしたことなかったな」とか、「恥ずかしながらこれは知らなかったな」など、あれこれ考えを巡らせながら一つひとつの記事を読んでいます。これからも増えるのかな。
 
わたしはいま、イギリスにいて、日本のニュースをインターネット(新聞、ウェブメディア、SNSなど)を通じて追っているわけですが、特に安保関連法案に関する動きなどを見ていてここ最近感じるのは、「完全には理解できていない。でも、何か違和感を感じる。このままじゃいけないと思うけれど、具体的にどう行動していいかまではわからない」という人たちが多いんじゃないかということ。そういう状態でも、「確固たる自信がなくても、対話を通じて自分たちなりの答えを探れるような場所」が必要なんじゃないかということです。
 
たとえば連日話題になっている、安保関連法案反対デモ。わたし個人的には、デモは民主主義社会において、とても重要な市民行動だと思っています(やり方の良し悪しはあるかもしれませんが)。ただ、SNSのタイムラインを見たりしていると、実際にデモに参加している人、または支持している人の発言が、先ほど書いたような「何かしなきゃとは思うけれど、その”何か”がわからない」という人たちを、かえって萎縮させてしまっている(温度差を広げてしまっている)のではないか、という印象を抱くことがあるのです。興味、関心、違和感⇒デモなどの政治的行動、とすぐに移行できる人はそんなに多くないと思うし、その間をつなぐ「安心して不安や問題意識を共有し合える対話の場」が(安保関連法案だけに限らず)今の日本には圧倒的に足りないような気がしています。
 
そんな個人的な気持ちもあって、今回のポリタスの特集のように、様々な視点から一つのテーマを考えるきっかけになるような取り組みが、何かいいな、と思ったのでした。もし興味が湧いたら、読んでみてください。