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日本の道徳教育を「人権」の観点から考えてみた

 
■最近話題の、「道徳の時間」の教科化について
 
昨年(2014年)10月、中央教育審議会が「道徳教育の教科化」を下村博文文部科学相に答申しました。現在は正式な教科ではない小中学校の「道徳の時間」を、「特別の教科」(数値評価を行わない)に格上げし、検定教科書を導入する方針。文科省は学習指導要領を改定し、早ければ平成30年度(2018年)からの教科化を目指すという報道がありました。
 
☆リンク:道徳に係る教育課程の改善等について(答申)(中教審第176号)
 
わたしは現在、イギリスの大学院で「市民教育(Citizenship Education)」について学んでいて、日本の「道徳の時間」は部分的に重なる部分があると思っているので、関心のある話題です。これについてFacebookで友人の皆さんから「どう思いますか?」と自由な意見を募ったところ、さまざまな立場の方からたくさんのコメントをいただきました(ありがとうございました!)。以下、一部抜粋してご紹介させていただいたあとに、わたし自身の考えも書いてみます。
 
☆「道徳の時間」が大切な理由は?
 
・いじめや犯罪防止に限らず、勉学やビジネスにとっても、道徳など情操教育の重要性を感じている。
 
・(カトリックの私立小学校では)「宗教の時間」が「道徳の時間」代わりで、聖書の物語を通じて隣人愛を学び、世界に色々な他の宗教があることを知ることができた。
 
・宗教の授業を通してボランティアや募金活動を身近に感じられた。小さいときに良い話を聞く機会を作るのは大切。
 
・授業を受けていた当時はあまり記憶に残らなかったけれど、大人になってから他人への思いやりや恩の大切さを実感するようになった。
 
・他の教科は答えを導き出すことに特化しているけれど、道徳の時間は感性を育める。同時に、教える教師自身の戒めにもなるのでは。
 
・教科化には賛成。でも教科書を読んで、筆者の考えを先生がそれとなく述べるだけなのであれば必要ない。
 
・道徳の授業を通して、初めて何かを知る生徒がいるかもしれない。でも社会一般の道徳常識が備わったのは、(授業よりも)両親の影響が大きいと感じる。
 
・日本にはキリスト教など強い教義を持つ宗教が社会の核とはなっていないから、学校教育で「道徳」が特に必要なのでは。個々の価値観が多様化するからこそ、あえて社会共通の価値観である「常識」を作らないと荒れていってしまう。
 
☆教科として評価することへの疑問
 
・特定の価値観を押し付けることになりそうだから、道徳の教科化には反対。
 
・教科化すると、検定教科書に書いてあることを頭に入れるだけになってしまいそう。
 
・「教科=成績をつける」のであれば教科化には反対。
 
☆そもそも「道徳の時間」って学校で必要?
 
・教科化の是非論議の前に、そもそもどういう日本人を育てたいのか、という根本的な議論が政治の世界で未熟な気がする。
 
・道徳心は、教科として学校で教えるよりも、電車とか公共の場での大人のマナーを見て養われるのでは。
 
・「道徳の時間」の中身はあまり覚えていない。「学校活動全体を通して」(掃除の時間や給食の配膳とか、昼休みや行事準備など)という形で道徳を学んだように思う。
 
☆「道徳の時間」に求められること
 
・内容にもよるけれど、人権教育や選挙民教育はした方がいい。
 
・教師や大人の顔色ばかりを伺う児童を作らないために、教える内容をジレンマにする必要がある。
 
・既存の各教科の中で道徳を学ぶべきで、「道徳の時間」の役割は、自分たちの生活を問い直す視点から各教科で得た知識を連結することにある。
 
・自分の命は自分で守れ、他者の命(人間としての尊厳)も同じように守れ、ということさえ教えてくれたらそれでいい。
 
・「これが優しさのカタチ」みたいに形や態度だけの教えになったら本質的ではない。だから、道徳の授業は答えのないような人生・世界
の問いについてとことんディスカッションする時間にしたらいいと思う。
 
・「規律」を学ぶんじゃない、一つの答えがあるんじゃなく皆で共有するものだ、と思える内容であることが大事。
 
・・・などなど、他にもいろいろご意見をいただき、大変参考になりました!
 
皆さんから寄せていただいたコメントを見ると、これまで習ってきた道徳教育については
 
「いい話」「優しさ」「思いやり」「愛」「感性」「モラルや規律」
 
といったキーワードを使われる方が多かった印象を受けました。
 
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■わたしの個人的な意見
 
・日本の道徳教育では、「差別をしない思いやりの心」といった個人間(ヨコ)の心理的側面が強調されてきた。
 
・しかし、本質的には「社会正義(Social Justice)」、特に「人権(Human rights)尊重」の共通理解がベースにあるべきであり、国家対市民(タテ)の関係や人権侵害(差別など)が起こる社会的構造を無視してはならない(教科化するのであれば、「人権の時間」という名前にして方向性を明確にすべき)。
 
・また、「道徳の時間」の単独枠で教えようとするのではなく、「公民」を中心に他教科との関連性を意識したうえで、将来自分や他者の権利を守るためにはどう行動するべきかを議論し、考える時間にするべき
 
だとわたしは考えています。詳しくは、また後ほど説明します!
 
■政府としてはどのように道徳教育を捉えているのか
 
先にリンクを貼った中央教育審議会の答申(以下、「答申」)では、下記のように書かれています。

道徳教育を通じて育成される道徳性、とりわけ、内省しつつ物事の本質を考える力や何事にも主体性をもって誠実に向き合う意志や態度、豊かな情操などは、「豊かな心」だけでなく、「確かな学力」や「健やかな体」の基盤ともなり、「生きる力」を育むものである。
学校における道徳教育は、児童生徒一人一人が将来に対する夢や希望、自らの人生や未来を切り拓いていく力を育む源となるものでなければならない。

ちなみにここで出てくる「生きる力」とは、“「ゆとり」でも、「詰め込み」でもない”新学習指導要領の軸となるものです(漠然としている感は否めませんが・・・)。
 
☆リンク:新学習指導要領・生きる力:文部科学省
 
そのほか、道徳教育を通じて身に付けるべき基本的資質として、
 
・多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢
・社会のルールやマナー、人としてしてはならないことなどについてしっかりと身に付けさせる
・それぞれの人生において出会うであろう多様で複雑な具体的事象に対し、一人一人が多角的に考え、判断し、適切に行動する
 
などが答申の中で挙げられています。
 
道徳的価値については、
 
1. 主として自分自身に関すること
2. 主として他の人との関わりに関すること
3. 主として自然や崇高なものとの関わりに関すること
4. 主として集団や社会との関わりに関すること
 
の四つの視点で分類されているようです。
 
■わたしが考える日本の道徳教育の課題
※秋学期のモジュールの一つ(Education and Social Justice)の最終エッセイで取り上げた内容にも重なります。
 
先ほど書いたとおり、わたしは
 
道徳教育=「思いやりの心」や「優しさ」を教える教育
 
という短絡的な捉え方に疑問を持っています。
 
「差別はいけません」「人に優しくしましょう」というのはあくまでも個人レベルの話であって、「(いけないことだとわかっていても)なぜ差別や排除が起きるのか?」という社会構造レベルの問いに答えるには十分ではないし、「社会のルールを守りましょう」と教えるだけでは、たとえば「成人したら選挙に行こう」というモチベーションには結びつかない、と考えるからです(ちなみにわたしが投票に行く大きな理由の一つは、「自分の権利を守るため」です)。
 
もちろん、モラルや規律を守ることは大切ですが、大前提として
 
一人ひとりに「人権」があり、それは尊重されなければいけない
 
という共通理解を育むために(「道徳の時間」に限らず)教育が行われるべきであり、
 
「思いやりの心」だけでは自分の人権も、他者の人権も守れない
 
ということを(教師も生徒も)認識するべき、というのがわたしの考えです。
 
また、子どもに「権利」なんて教えたら、わがままを助長する、自己中心的なことを言うようになる・・・などという意見が聞かれることもありますが、「人権とわがままは異なるものである」ということも(大人含め)学ぶ必要があると思います(むしろ、何が違うのか?を考える時間を授業の中で持つべきでしょう)。
 
もちろん子どもの成長段階に合わせて内容は検討されるべきですが、
 
・日常生活のどんな場面で人権が侵害されるのか?
→いま戦争をしている「遠い国」だけでなくて自分たちの普段の生活でも起こりうること。
 
・人権侵害から守るためには、何と闘い、どんな手段を取る必要があるのか?
→一人ひとりの権利を勝ち取るためには、既存の法律や制度を変えなければいけないこともある。
→だからこそ、「公民(政治・経済や現代社会など)」の授業を通じて、国家と市民との関係を学ぶ必要がある(「1948年に世界人権宣言が採択された」ということを試験のために暗記するだけでは意味がない)
 
など、道徳の時間では、公民を中心に他教科との関連性を意識したうえで、将来自分や他者の権利を守るためにはどうしたら良いのかを議論し、考える時間であるべきだと思います。その中で子どもたちは、「それぞれが権利を主張する時、互いの言い分がぶつかることもある」ことに気付き、その葛藤の中でどう他者と協働していくべきか?を考えることになるのではないでしょうか。
 
Facebookで意見を募ったときに「道徳の授業で学んだことはあまり記憶にないけれど、いい話を聞いたような気がする」という印象を述べた人が少なくなかったのは、将来、実生活の中で役に立つ内容ではなかったから、というのが一因だと思います(わたしも「さわやかさんくみ」観たなぁ・・・ぐらいしか覚えていません。それはそれで楽しかったですが)。
 
■現在の日本の学校教育における限界
 
とは言え、人権教育を日本の学校教育の中で実践するうえで難しい点もいくつかあります。
 
・市民革命を通じて人権宣言を採択したフランスなどとは異なり、日本では「人権とはや闘争の末に勝ち取るもの」という意識が薄い
(部落問題をめぐる政治的闘争はあったもの、全国的に広がりを見せた運動ではない)
 
・「人権」は個人間だけの問題ではなく、人権侵害の主体となりうる国家vs権利を主張する市民という対立構造も生むため、国家に対する批判的姿勢も人権教育を通じて育まれるべきだが、教育カリキュラムが政府主導であり、学習指導要領が(実質)法的拘束力を持つ日本では、学校で教師が教えられることに限界がある(ゆえに、「思いやりの心」のような無難な内容になりがち)。
 
・人権教育には教師の指導力が問われるが、ただでさえ忙しい学校の教師が人権について体系的に学び、それを生徒たちに教えるということは容易なことではない(「正解」がない内容であるからこそ、より一層教えるのが難しく、学校や教師の経験によって差が出てしまう)。
 
など。
 
これらの課題については、今後の大学院での研究生活、また修了後のキャリアを通じて考えていく必要がありますが、上辺だけではない人権教育を実践するためには、政府・学校・地域・家庭の連携だけでなく、NGOなどの民間組織との協働が不可欠だろうと個人的には思っています(わたしがNGOの業界に身を置いている理由の一つは、ここにあります)。
 
■まとめ
 
「道徳教育」と言うと、「優しさ」「思いやり」などの心理的側面が強調されがちですが、「モノカルチャー社会」として捉えられることが多かった日本社会でも、今後ますます多様化が進み、それだけでは対応できない問題も出てくると思います。国内だけでなく、グローバリゼーションが進む国際社会全体の課題でもあります。
 
だからこそ、人間が平等に持っている「人権」の尊重を前提に、それを守るためにどう行動するべきなのか?を大人も子どもも(政府も市民も)一緒に考えなければいけない時代を迎えている、というのがわたしの考えです。
 
これからも「人権教育」(Human Rights Education)はわたしの研究&キャリアのテーマであり続けると思いますので、いろんなご意見やアドバイスをいただけたら幸いです。
人権教育に積極的に取り組まれている学校などあれば是非知りたいなぁなんて考えています(部落問題→同和教育の流れから、関西の方にそういう学校が多い気もします)。
 
長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!
未熟ながら、大学院生活後半も真摯に学んでいきます。
 
[photo by charlottelovey.blogspot.ca]