├出会い・想い・学び

「彼氏(彼女)いるの?」という言葉にひそむ「生きづらさ」

 
昨日、こちらの記事を読みました。
 
▼セクシュアル・マイノリティーと引きこもり 異性愛前提の社会に生きづらさを感じる人たち|「引きこもり」するオトナたち|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/63541
 
「性別欄に“自身の性別とされているもの”が表記されなければならない社会」=「異性愛が前提になる社会」に生きづらさを感じる・・・という「セクシュアル・マイノリティー」の当事者の声が取り上げられています。
 
※「セクシュアル・マイノリティー」=「性的少数者」という表現は好ましくないとする意見もあるため、この記事ではLGBT(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダーの頭文字)という言葉を使います。興味のある方は、下記サイトをご参考に!
 
▼NHKオンライン | 虹色 – LGBT特設サイト
http://www.nhk.or.jp/heart-net/lgbt/index.html
 
※最近ではLGBTQという言葉が使われることもあります。「Q」は「Queer」 (もともとは「変わり者」。セクシャリティの文脈では「個性的」という意味で使う人もいます)もしくは「Questioning」(不明)。
 
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photo by donv.org

 
わたしは今、英国・イングランドに留学していますが、会員登録などの際に自分の性別を記入する欄を見ると、「男性/女性」の二択だけでなく「どちらにも当てはまらない」「明言したくない」などの選択肢が用意されていることが多いです。
「そんな些細なこと…」と言う人もいるかもしれませんが、そういうちょっとした配慮があるだけで生きやすくなる人もいるだろうな、と上の記事を読んであらためて思いました。
 
【追記】Google+のユーザー基本情報において、性別を‘明言しない’(decline to state)など自由にカスタムできるようになったそう。Googleは、以前からLGBTに対して強い理解を示している企業ですね。
 
▼Google+でもジェンダーの表現が自由になった…Facebookよりも大幅に自由 – TechCrunch
http://jp.techcrunch.com/2014/12/11/20141210google-plus-custom-gender-identification/
 
個人的な感覚ですが、日本と比べるとイギリスの方が自分が同性愛者であることを公言している人が多い印象を受けます。駅など公共の場で、男性同士がキスしている光景も珍しくありません(そして特にそれを不思議がる人もあまり見かけません)。
 
ちなみに英国における同性婚を認める法律の成立状況は下記のとおり(いくつか追記しました)。
 
☆イングランドとウェールズ:2013年7月に可決、2014年3月に施行。
→参考記事:Same-sex marriage becomes law in England and Wales – BBC News (17 July 2013)
 
☆スコットランド:2014年2月に可決、2014年12月に施行。
→参考記事:Gay marriage law comes into effect in Scotland – BBC News (16 December 2014)
 
☆北部アイルランド:同性婚は法律で認められていません(2011年~シビル・パートナーシップ制度を導入)。2014年5月、アイルランドで同性婚解禁に向けた憲法改正の是非を問う国民投票が行われます。
→参考記事:Same-sex Marriage Referendum – The Irish Times
 
少しずつ社会的に認められてきている同性婚ですが、宗教などを理由に反対の立場を取る人もいます。今年10月にバチカンで行われた「世界代表司教会議」(シノド: カトリックの枢機卿や司教らによる集会)では、フランシス法王による同性愛への歩み寄りの姿勢に注目が集まりました。中間報告では、
 
Homosexuals have gifts and qualities to offer to the Christian community(同性愛者はキリスト教コミュニティーに貢献する才能と資質を持っている)
“accept and value” homosexuals(同性愛者を受け入れ、価値を認める)
 
との文言が盛り込まれましたが、保守派の反対が根強く、報告書の承認に必要な3分の2の同意を得られなかったため、最終報告では、
 
men and women with homosexual tendencies should be accepted with respect and sensitivity(同性愛の傾向を持つ男女は、敬意と配慮を持って受け入れられるべき
Any sign of unjust discrimination in their regard is to be avoided(同性愛者に対するいかなる不正義な差別も避けられるべき)
 
と記されるにとどまりました(司教会議は1年後にまた開催され、最終決定が下される予定です)。
 
▼BBC News – Catholic synod: Gay rights groups ‘disappointed’
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-29678751
 
・・・話が広がってしまいましたが、イギリスで市民(シティズンシップ)教育、特に人権教育について勉強しているわたしにとって、LGBTは今後日本でも理解が進むべきテーマだと思わずにはいられません。身近に当事者がいないとなかなか意識しづらいことかもしれませんが、実は日本でも20人に1人はLGBTと自認する人がいるという調査結果(※)があり、割合だけで言えば学校のクラスの中に1~2人はLGBTの生徒がいると考えることもできます。
※電通総研LGBT調査2012(http://dii.dentsu.jp/project/other/pdf/120701.pdf
 
セクシュアリティに限らず、ますます多様化が進む中で、「生きづらさ」を取り払ってみんなが社会参加できるよう、制度面でも整えていかなければいけない課題がたくさんあります。でもまずは、一人ひとりの意識を少しずつ変えていく必要があると思います。たとえば、小さなことですが、ゲイを公言している知人が「彼女いるの?」ではなくて「恋人(パートナー)はいるの?」という聞かれ方をされると答えやすい(※)と言っていたので、私も(相手の状況を知らない場合は)そのような表現を使うように心がけています。また、教育を通して子どもの頃から「人権」について考える機会を増やしていくべきだとも思います(人権教育については、また別途記事を書きたいと思っています)。
 
※この記事を読んでくださった方から、「英語ではどんな風に聞けばいいの?」とご質問をいただきました☆
ネイティブの友人にも確認を取ってみたところ、“Are you seeing someone?”“Do you have a partner?”といった表現がニュートラルだそうです。でも「(イギリスだと)たとえ質問の仕方が正しくなくても『girlfriendじゃなくてboyfriendがいるんだ』って普通に訂正して答える人も多いし、失礼にあたるかどうかそんなに気にしなくてもいいかも?」とのこと。個人差はあると思いますが、日本よりもオープンなのでしょうね!
 
私がこれまでいろんな国を旅し、多くの人に出会い、そしていま留学に来ている中で感じるのは、「自分が思っている以上にいろいろな生き方がある」ということ。中には、「価値観が違いすぎる・・・」と思うこともありますが、無理に合わせる必要はないと思っています。「そういう人生もあるんだなぁ」と受け止め、素敵だなと思ったところは吸収する。100%理解できなくても、相手に対して敬意を払う。違いをきっかけに自分の生き方を考えたり、たまに似ているところを見つけて笑い合えたら楽しい。
 
あ、でも海外で共同生活をしているとたまに本当にイラッとすることもありますが、ここでは省略させていただきます(笑)。
 

“のろま”なわたしのシンプルな必勝戦略!

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image via gettyimage.com

 
子どもの頃から
「どうしてあんたはそんなにのろまなの・・・!」
と言われて育ったわたしには、あるひとつの必勝戦略があります。
 
それは、
「誰よりも先に準備を始めること」
つまり、スタートダッシュをかけること。
 
超シンプルですが、これが本当に大切!
 
わたしは、自分でもなぜなのかわからないほど何をするにも人の倍の時間がかかります。おまけに、忘れっぽくてケアレスミスも多い。たぶん、生まれつきなのだろうと諦めています(笑)
 
幼稚園に通っていたときも、工作の時間にわたしだけ終わらせることができず、製作途中の粘土をいじめっこ気質の同級生にぐちゃぐちゃにされたり・・・、
 
小学校のとき、どう頑張っても時間内に給食を食べ終えられないので、少なめによそってもらったり・・・
 
中学校の習字の時間は、筆を洗ったり硯を片付けたりという作業に人一倍時間を取られるから大嫌いで、先生に作品を提出するまでに周りが5枚書くとしたら、わたしは3枚だけ書いて終わりにしたり・・・
 
物心ついた頃から
「どうやらわたしは、みんなと一緒にスタートを切ると遅れを取るらしい」
という自覚が芽生えていたように思います。
 
「みんなに置いて行かれる!」という恐怖心を常に持っていて、
それを払拭するために「他の人よりも先に始める」ことが習慣になりました。
(だから、一夜漬けとか絶対にありえない)
 
誰よりも早くスタートを切ってリードを取っておけば、結果的に何とか人並みの時間で作業を完了できる。
もしくは周りが少しでも怠けたときには、わたしが少しリードすることができる、ということに気付きました。
まさに、イソップ寓話の「ウサギとカメ」です。
 
周りから、「あなたは何でもこなせるね」「苦労しなくていいね」と言われることがありますが、それはみんなが結果しか見ていないから。「限られた時間で人並みに結果を出す」ということが、わたしにとっては本当に難しいことで・・・。実際は、みんなより先に準備に取り掛かり、必死に作業を進めているから、何とか追いつけているだけです。そしてそれは、能力の高さゆえではなく、自分だけ取り残される恐怖心がわたしを突き動かしてきました。
 
大人になった今でも、「どうしてわたしは、何をするにもこんなに効率が悪いんだろう」と悩むことが多いですが、それに早く気付けたからこそ、課題を先送りにせず、すぐに物事に取り掛かる習慣が身に付いたと思っています。
イギリスの大学院に留学している現在、それが自分の強みだと気付けるようになりました。
 
たとえば、「エッセイは提出の3日前から書き始めれば大丈夫でしょ」という同級生がいる中、わたしはタイトルが発表されたその授業のあとにすぐ図書館へ向かい、然るべき文献を探しに行きます。
確かにわたしには余裕がないけれど、そのお陰で、他の人に借りられる前に本をゲットできるし、早めにドラフト(下書き)が仕上がるので提出前にチューターにアドバイスをもらうことができるので、周りよりも良い結果を出すことができる。
効率よくこなせる人がうらやましいな、という気持ちもありますが、人それぞれやり方があるから仕方ないですね・・・(涙)
 
コンプレックスや弱点があっても、それをカバーするやり方を自分で見つけられれば、むしろそれが強みに繋がります。
もちろん、努力だけではどうにもならないこともあると思いますが、少なくともわたしのように「何をするにも時間がかかる」という人には、「誰よりも先に始める」という必勝戦略がオススメ。すごく単純なことだけど、これが出来る人は意外と少ないのでは。人はいつも勤勉なわけではないので、早めにスタートを切っていれば、大抵の場合、人より結果を出すことができます。「何でも効率がいいうえに、スタートダッシュにも強い」という人にはどうしてもかなわないですが!
 
わたしは「天才型」でも「器用」でもないので、これからも愚直に自分のスタイルをブラッシュアップしていきたいと思います(^^;
(でもやっぱり効率良くこなせるようになりたい・・・)
 

限られた人生の中でわたしにできるのは、経験をシェアしていくこと

 
ご存知の方も多いと思いますが、私は昨年3月に骨髄のドナー(提供者)として移植手術を受けました。相手の患者さんは、10歳未満の男の子(という情報しかわかりません)で、手術から1年経った今年の3月、ご本人とお母様からお礼のお手紙をいただき、「頑張って生きてくれているんだ!」と感激しました。
 
▼お手紙をいただいた時のブログです。
骨髄提供をした男の子が教えてくれたこと | 齋藤実央オフィシャルブログ【Enbook】
 
手術から3ヶ月たった時、Facebookで目にしたのは、わたしの友人のお知り合いで、白血病と闘っている同世代の女性の投稿。直接の繋がりはありませんでしたが、とても他人事とは思えませんでしたし、ポジティブに闘病されている姿に元気をもらいました。
患者さんたちはドナーに対して「手術のリスクを負わせて申し訳ない」という思ってしまうことが良くあると聞きます。わたしが患者さんのお母様からいただいたお手紙にも、「手術で痛い思いをさせてしまったでしょうね・・・」と書かれていました。
でも、わたしはむしろ、「自分が生きていることには理由があったのだ」と思わせてくれた患者さんに感謝しているということ、また「陰ながら応援しています!」という気持ちを彼女に伝えたくて、Facebookで個別メッセージをお送りしました。
 
あれから約1年。その女性が、「ある程度元気になったと感じたら、是非実央さんにご連絡させて頂きたいと思っていました」とメッセージをくださったのです!まだ体調は万全ではないにせよ、だいぶ体力もついてきて、完治に向けて日々前進されているとのこと。うれしい!!
「今の自分の体は、自分だけのものではなく、ドナー様の血も流れているんだと思うと、絶対に完治する様に、健康である様に、努力するぞ!!と、『命の責任』の様なものも強く感じています」という言葉にも、闘病経験者だからこその重みを感じます。帰国したら、ぜひお会いしたいなぁ。お話したいこと、たくさんあります。そして当事者として、一緒に何かメッセージを発信していけたらと考えています。
 
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Image: febyfe.com

 
わたしが骨髄移植手術に至るまでのプロセス、そして高校での講演などを【骨髄移植ドナー体験談】というカテゴリーでブログにも残してあり、読んでくれた方から、「骨髄バンクに登録してみたい!」「実はドナー候補に選ばれたのですが、実央さんはなぜ手術を受けようと思ったのですか?」などご質問もいただいています。
(※わたしは日本骨髄バンクのスタッフではないので、骨髄バンク登録など最新の情報については公式サイトをご覧くださいね!)
 
この人生の中で経験できることや出会える人の数は限られているからこそ、わたしがそこから学んだこと、感じたことを自分の言葉で発信し、残していきたい。そんな思いもあって、わたしはこのブログを続けています。骨髄移植についても、「エライでしょ!」と言いたいわけでも、「みんなドナー登録するべき!!」と押し付けたいわけでもありません。「全く関心がなかったけれど、リアルな声を聞いて少し興味がわいた」「前から少し気になっていたけれど、きっかけがなかった」という人にとって、一歩を踏み出す勇気になったらいいな、そしてそれが、誰かの命を救うことになったら素敵だな、という気持ちで書いています。
 
インターネット上で飛び交う言葉は、時として誤解を生みます。わたし自身、良かれと思って言ったことで誰かを傷つけてしまったこともあるし、逆に自分が傷ついた経験もあります。でも、インターネットがあるからこそ、わたしが届けられるメッセージもあります。ご縁あってわたしの文章を目にした誰かの心が、少しでもポジティブに動くような言葉を選び取っていきたいです。
 

わたしの「声」は両親からもらった大切なギフトです

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クラスメイトが、「Mioの声はすごく心地良くて聴きやすいね!」と。私にとっては、「英語が上手だね」よりもうれしい褒め言葉です♡
 
日本でも、イベントに登壇した時などに評価してもらえることが増えて、「この声は両親からもらったギフトだな」と思うようになりました。いろいろとコンプレックスもある私ですが、一つでも自信を持てるものがあるというのは、本当にありがたいことです。
 
ちなみに、「声がよく通るし、アナウンサーみたいなクリアな話し方だね!」とも良く言われますが、これはもともと俳優業をしていた両親に幼い頃からスパルタ教育を受けていたためだと思っています。いわゆる職業病・・・?
 
小学生の時に、「音読」の宿題ってあったじゃないですか。国語の教科書を親の前でちゃんと読めたらサインをもらうっていう。
うちの両親は、「猫背で読まない!」「顔から教科書を離す!」「句読点でちゃんと切る!」「語尾を伸ばさない!」と一つひとつ注文をつけてきたし(笑)、「いま注意した所に気を付けて最初から読み直し!」なんてことも良くありました。
 
子どもの時は、「なぜうちの親はこんなに話し方に厳しいんだろう?」と不思議でしたが(私自身、話すことが好きだったので嫌ではなかったのですが)、今となっては本当に感謝しています。
 
父親からは、「話の内容は二の次。話し方がきちんとしていることが大前提。それで信頼してもらえて初めて、話を聞いてもらえると思いなさい」
 
母親からは「相手の目をまっすぐ見て話すこと。両目を直接見ようとすると難しいから、眉間の少し上を見るように心掛けて、決して目を泳がせないこと」
 
と繰り返し言われていたなぁ。
 
私は、あまりに話し方がしっかりしているため、実はパニックになっていたりすごく困っていたりしても相手に伝わらないという経験も多々しているのですが(ごくたまにデメリット)、声質や話し方は大人になってからそう簡単に変えられるものではないと思うので、幼い頃に基本を叩き込まれたことは良かったのかもしれません。
 
英語は「ペラペラ」まで行かないわたしですが、間違いを恐れずに堂々と話せるのは、両親からもらった「声」というギフト、みっちり練習させられた「話し方」が自信を与えてくれていていることも一つの理由なのだろうな、と留学先で実感しています。
 
お父さん、お母さん、ありがとう!!
娘はイギリスでも元気に頑張っています(笑)
 

正しい道を選ぶのではなく、選んだ道を正解にしていくこと

渡英して、3日が経ちました!

出発ギリギリまで実感がわかなかったし、「あ、わたし本当にイギリス来ちゃったんだなぁ」と今でも他人事のように見ている自分もいたりします。
(でもそのうち、そんな余裕もなくなることでしょう・・・。)

さて今回、4年半ぶりに「学生」という立場に戻ったわけですが、ふと思い出したのが、10代で二度経験した「受験」のこと。いま思えば、あれは「さまざまな条件を比較・検討して、自分の意思で選択・決断をする」という一種のトレーニングだったなぁと。
受験システムの良し悪しの話は横に置いておき、そこから学んだことはいくつかあるのですが、

「正しい道を選ぶのではなく、自分が選んだ道を正解にしていくこと」

この大切さを実感できたことが一番の収穫だったかもしれません。

12歳、中学受験で不合格。

わたしが12歳の時。中学受験をして、第一志望の学校に落ちてしまいました。
当時、まだ小学校6年生。小さかった私には「落とされる」というのはとても辛い経験で、
何もかも取り返しがつかないような罪悪感に囚われながら、別の学校に入学しました。
「第一志望の学校に入れなかったのだから、優等生でいられなければ恥ずかしい」
という気持ちもどこかで持っていたように思います。
とにかく、どこかで穴埋めをしないといけないような気がして、勉強も部活もとことんやりました。

でも結果的に、「第一志望ではなかった」なんてことは忘れるぐらい、
本当に素晴らしい先生、気立てのよい友人たちに囲まれて幸せな6年間を過ごしました。
「私は、この学校に入るべくして入ったんだ」と今では思います。

18歳、大学受験で猛反対される。

18歳。大学受験の時を迎えました。
中学生の時から何となく法学部を目指していて、親からも先生からも国立大学に入ることを期待されていました。
でも、もともと関心があった社会福祉学を学びたいと思い立ち、高校3年生になってから公立大学に志望校を変更。
新設された大学で不確定要素が多かったこと、国立に比べると偏差値も低かったことなどから、先生たちには「あなたにはもっと向いている場所がある」と猛反対されました。
頑固だった私はそれでますます意地になり、そのまま公立大学を受験し、二期生として入学したのです。

高校生だった私は、「大学受験で自分の人生が決まってしまうんじゃないか」と思っていたので、
先生たちの反対を押し切ってまで下した決断が「間違い」だったらどうしよう、と内心すごく怖かった。

そんなことはおくびにも出せず、反発心を持ったまま入学したけれど、
「勉強が好きなあなたなら、いきなり専門を狭めるよりも幅広く学べる選択肢を残した方がいい」
という先生の言葉は頭の中に残っていて・・・。
社会福祉のコースを取るために選んだ大学だったにも関わらず、結局私は2年次のコース選択の際に、社会学分野を選びました。

充実した大学生活を送って、私の決断に反対した先生たちを見返したい。
もともと、そんな反骨精神を持ってスタートした大学生活でしたが、そのお陰もあって「勉強も遊びも全力でやろう」と腹を括ることができ、ユニークな先輩や同級生たちに触発されながら、自分の殻を破ることができた4年間でした。

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photo via styleunveiled.com

26歳、大学院留学を決意。

思えば、10代の頃のわたしは、「正解に近い道を選ぶ」ことが重要だと考えていたのだと思います。
できるだけ、リスクの少ない方を。
できるだけ、周りの期待に添えるように。
できるだけ、無駄のないように。

判断基準は「自分」よりも「他人」であり、決断してからも「これで良かったのか」と悩んでしまうことばかり。
でも、わたしはこの2つの受験の経験から、「最初から正しい選択をしようとして迷うよりも、自分が選んだ道が正解だった、と後から言えるように行動すれば、必ず得られるものがある」ということを学んだのです。

そして迎えたのが、今回の留学にあたっての「大学院受験」。仕事をしながら出願書類を準備したり、英語の試験を受けたりというプロセスで苦労したのはもちろんなのですが、何よりもわたしが悩んだのは、「仕事を辞めてまで、高いコストをかけて留学する意味は果たしてあるのか」ということ。

10代の時と同じく、やはり「より正しい選択肢はどれか」ということに囚われてしまい、自分の頭の中で堂々巡りを続けていた時期もありました。でも、最終的に「海外の大学院で勉強する」という決断を下すに至ったのは、「客観的な『正しさ』なんて、選ぶ時点では誰にもわからない。それならば、自分が惹かれる方向へ素直に従おう」と思ったからです。

「正解」にするのは、自分。

中学受験で、第二志望の学校に進学したとき、
周囲に反対されて内心怯えながら、大学受験の志望校を変えたとき、
大好きだった職場を退職し、大学院へ留学しようと決めたとき。

「この選択は、間違っているかもしれない」という不安が、毎回頭をよぎります。それを払拭するには、「これで良かったんだ」と後から振り返って言えるような選択を、積み重ねていくしかないのだと思います。これからも。

すでに渡英した今でさえ、自分の選択が「正しい」ものであるかどうかは全く分かりません。でも、10代の頃に受験生だった自分と異なるのは、「選択したあとの行動次第で、いくらでも道は拓けるから大丈夫」という漠然とした安心感があること。

選んだからには、「これがわたしにとっての正解」だと胸を張って言いたい。
わたしの挑戦は始まったばかりですが、「やって良かった!」と帰国するときに心の底から思えるような大学院生活を送りたいと思います!

意志を貫く強さと、たまに流されてみるしなやかさ

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Photo via poopsiecollective.com

 
「努力が全て報われるとは限らないけれど、結果を出した人は皆、努力をしている」と良く言うのと似た感じで、
 
「運が全員に巡ってくるとは限らないけれど、幸運に恵まれた人は皆、努力している」と最近思います。
 
「運が良いのも才能のうち」ってどういう意味だろう?って子どもの頃は不思議だったのですが、
 
「ツキというのは努力している人にこそ巡ってくるものなんだ!」と腑に落ちるようになりました。
 
何かしら頑張っている人の所には、応援してくれる人も、必要な情報も、ヒントになるようなアイディアも集まってきて、どんどん夢が実現していくんですよね。
 
それは全て、努力の結果として付いてきたものなのだけど、そういう人ほど、「自分がこれまでこんなに頑張ってきたからだ!」とは考えない。
ただ「運が良かった」「タイミングに恵まれた」と話す人が多い。
 
しかも、謙遜ではなく、本当に「自分はラッキーな人間だ」と信じているから、ますます運を味方につけていくことができる。
 
***
 
ここからは勝手な持論なのですが、
 
成功の理由を「自分の努力の成果」よりも「運のおかげ」と捉える人は、たとえ失敗したときでも「全て自分のせいだ」とは思わない。
ある程度まで反省したら、「あとは運やタイミングの問題。次行こう、次!」と割り切れるので、立ち直りも早い。
 
(そして、いちいち「挫折」を語らない。たいてい面白おかしい失敗談に変えて話してくれる)
 
一方で、
 
成功の理由を「自分の努力の成果」と捉える人は、失敗すると「こんなに自分は頑張ってきたのに、なぜ結果が出ないんだ?」と納得がいかない。
最終的に不運や環境の悪さを嘆いたり、他人のせいにしたりする。
 
(そのくせ、その苦労話を武勇伝として語りたがる)
 
・・・ちょっとブラックな分析かもしれませんが(笑)、
 
自分中心の視点にこだわるよりも、「自分の力ではどうにもコントロールできない存在(=運やタイミングなど)」があることを理解している人の方が、
 
成功したときには周りの環境に素直に感謝できるし、失敗したときにも自分の首を締めなくて済むのでは、とわたしは思うのです。
 
でもこれは、あくまでも「日頃の努力」がないと成り立たないことなんですけどね。
 
その前提がないと、「自分は何もしないくせに何でも周りのせいにする、ただの無責任な人」になってしまう恐れあり。
 
***
 
わたしが持ちたいと思うのは、自分の理想を追求する強い意志だけでなく、時には自分ではコントロールできない流れに身を任せるしなやかさ
 
常に「ブレない」のも疲れるし、
かといって長いものに巻かれすぎても自分を見失ってしまいそうなので。
 
「何となくこういう方向を目指したいな」という想いを持ちつつ、
そこに行き着くまでのルートや手段は、状況に合わせて変えることも厭わない。
 
そして、脇目も振らず山の頂上だけを目指すのではなく、
山に向かうまでの風景や、すれ違う人たちとの会話も楽しむ余裕も持っていたいと思います。